日々の泡

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THE GOOD KIDSライブ感想や日記

 SNSでは続々と野外フェスの出演者の発表がされていく。いつもの癖でバンド名を探す。当たり前だがそこにはもうThe Birthdayはいない。

 フェスに行けても行けなくても、出演者発表を見るだけで楽しかった。ずっと全国をまわっているバンドが続いているだけで嬉しくなった。春から夏にかけては他のバンドマンとビール片手に写真に写るチバを見かけては、ああ今日もチバが楽しそうでよかった、と思っていた。

 すべてが過去形になってしまうのがどうしても寂しい。

 

 2024年2月25日、THE GOOD KIDSのライブを観に下北沢club Queに行った。入場時には受付で5月のジェッジジョンソンのワンマンライブのチケットも購入した。もちろんジェッジジョンソンは元々好きなのだが、藤戸じゅにあさんがXで次のワンマンではチバさんの曲をカバーしますと書いていたからだ。

 THE GOOD KIDSのライブの開演前DJでは、フィッシュマンズスチャダラパースカパラが流れていて、みんな好きに踊りながら開演を待っていた。開演前の最後に、The BirthdayのLOVE ROCKETSが流れた。LOVE ROCKETSが流れる中でQueの二位さんがステージに出てきて、満員なのでみなさん入り口側から奥まで寄ってください、というような挨拶をして、お客さんはちゃんと下手側に移動していた。

 初めて行ったTHE GOOD KIDSのライブは楽しかった。スカパラの大森さんがいる上手側で観ていたので、周りをノリの良いスカパラファンのお姉様がたに囲まれて、ああスカパラのライブもこんな風に楽しいんだろうな、と思った。

 中盤にゲストでフジケンが呼び込まれて出てきたとき、私は寂しくなってしまった。私は前回のTHE GOOD KIDSのライブには行っていないので、フジケンは最後に観たときよりやつれていたように見えた。それでもMCで奥野さんが喋り倒すときには微笑む場面もあって、少し安堵した。

 フジケンはゲスト扱いなのでギターを下手側で弾いていたのだが、いままで上手側で観ていたことや、隣に当たり前にいた人間がもう永遠にいないこと、もしかしたらQue30周年でここでThe Birthdayを観られたかもしれないこと、すべてのifを想像して強烈にチバの不在を感じた。

 フジケンより後から呼び込まれたゲストのTOSHI-LOWは、MCでフジケンに「チバの前のバンドはEvery Little Thingだっけ?」と絡んだり、アンコールで青いTHE GOOD KIDSのグッズTシャツを着ていたフジケンに「バースデーで青なんて着たら解雇だよ!」と絡んだり、彼なりの優しさを見せていて、それもまた嬉しかったり、寂しかったりした。

 2018年のウエノコウジ生誕祭ぶりに、TOSHI-LOWがカバーする「満月の夕」を聴いた。私は特別BRAHMANを聴き込んだりライブに足繁く通ったりしているわけではないのだが、「満月の夕」のカバーを聴くと、歌が持つ力を信じたくなる。震災はもちろん、このタイミングで聴く「満月の夕」は鎮魂が含まれていると、受け手として勝手に想像してしまう。

 下北沢から自宅まで帰る電車は人身事故でダイヤが大幅に乱れていた。人はいつだって死ぬ。暑い日も寒い日も晴れた日も雨の日も雪の日も人は死ぬ。私は自裁(あえてこの単語を選ばせてほしい)も病死だと思っている。

 本来使いたいルートの電車が来なかったので迂回して帰宅した。迂回した埼京線の女子トイレで、チバがいないことを思って少し泣いた。

 べつにわざわざSNSに書いても仕方ないので書かないけれど、ここは個人的な日記なので弱音を書き出すと、今でも夜眠る前にチバがもうこの世界のどこにもいないことをふと思い出して、泣きながら眠っている。

 音楽も映像もこの世に残る、頭では理解していても、もう二度と、目の前で歌は聴けない。

 いまできることといえば、遺された新譜を待つことだけだ。

 若くても若くなくても病気でも病気じゃなくても、人はいつだって簡単にいなくなる。私もあなたも、ふっと永遠にいなくなる瞬間が訪れる。 

 べつに死というのは悲しみだけではない、と私は思う。いつか死ぬから頑張れることがあって、いつか死ぬから諦められることがあって、いつか死ぬから美しい景色に焦がれる。

 いつか死ぬのに、私たちはたくさん思い出を作ろうとする。いつか死ぬけれど、ひとはひとりで生きているつもりでも意外とひとりで生きていないから、誰かの記憶には、たぶん、一般人の私ですら、ひとりかふたりかはわからないけれど、死んだあとにも記憶に残り続ける。

 世界の終わりを想像してみる。終わりっていうのは案外悪くないんじゃないかと、私は希望を捨てきれないのだ。